ブログの記事を書き始めたら、とたんに娘がふだんにない大きな声で歌いだした。
私は、不器用なたちなので、何かを書こうとしている時そばで話し声がすると考えがまとまらない。
娘もわたしも、歌は聞くのも歌うのも大好きだが、机に向かっている時娘が大きな声で歌うということはまず、ない。なので、加害者がわたしに今日の記事を書かせたくないために邪魔をしているのだと思う。けれども私は、「転んでもただでは起きない」というのに憧れているので、この記事を書き始めた。
すると今、娘は急に歌うのをやめた。
さて、キューバへ行ったときのことを書こうとしていたのだった。
2002年の12月、娘と一緒にキューバに向かった。
ハイテク犯罪の被害者であると思い知らされたのは、その年の11月だった。
どうしてキューバに行こうと思ったかと言うと、ハイテク攻撃を初めて自覚した時の加害組織が自衛隊だとおもったからだ。
その時の住まいの裏手には、自衛隊の駐屯地があった。ある夜中に、突然異様なサイレンの音が聞こえてきた。そして、眠っていた娘の全身が何か細かく強力な空気で撃たれているように動き、娘はうーうーと苦しそうにうめき始めた。わたしの体で娘への攻撃を防ごうとしたけれども、効果がなかった。それで娘を起こして外に出た。夜中の2時か3時だった。11月の北海道は寒い。しばらくの間外に出ていたが、サイレンの鳴り響く夜空を見ているのも気分のいいものではなく、じきに家の中に入った。
強烈な娘への攻撃はその後来なくなったけれども、ラジオ放送が聞きとれないほどに妨害波が強く、実際,体感できるほどの何かが来ていた。どうにかしなければと思いながら、どうにもすることができなかった。わたしにはハイテク知識がまったくなかった。
自衛隊を抱えているのは政府組織、その政府は資本主義の政府なので、体制が違う国ならこの攻撃がないかもしれないと思い、キューバ行きを決めた。
資本主義体制でない国はいくつかあったけれども、わたしはどこにも魅力を感じていなかった。中国は共産主義と言っても、本来の共産主義の良さも自由もない国だということは知っていたし、北朝鮮はお話にならない世襲制の独裁国家だし、ベトナムは気候が蒸し暑いようだし・・・。ということで、キューバになった。それに、元々中南米には興味があり、私の大好きなビクトル・ハラはチリの人だった。チリに行かなかったのは、アメリカの言いなりになるという点で、日本と大差ないと思ったからだ。
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今、低周波のためかと思いますが、気持ちが悪く、前頭葉も圧迫されていて、これ以上書き続けられません。また後で書きます。
(12月1日夜)
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